LAにて
2025年の3月と4月の2ヶ月間,仕事の関係でロサンゼルスに滞在している.現在4月11日.この出張も終盤に差し掛かっている.
ここまで順調だったかというと全くそんなことはない.そもそも私は英語があまり話せない.それに加えて現地での仕事仲間に日本人はいないし,彼らはみんな日本語を話せない.正直なところ,今なおネイティブのメンバーの会話には付いていけない.それでもよくこの1ヶ月間仕事したなと思う.確かに,全然ネイティブに会話はできていないのだけれど仕事はできている.仕事としてやらなければならないことをやる,伝えなければならないこと伝える,仲良くなるべき人と話す時間を設ける,こういった自分で設定した具体的なタスクをこの1ヶ月でほとんど消化できた.英語が流暢に話せるか話せないかは意外と重要ではなかった.ただし,それが苦しくなかったかと言われたらそんなことない.英語が話せないことに対して恥ずかしく思うし,流暢に言葉が出てこないことに失望するし,文法の整っていない英語で話しているときは,まるで裸で踊っているようだなと感じたことを覚えている.
この1ヶ月の間,常に意識していたことがある.それは,「過程じゃない.成すべきことを成したという結果が全てだ」ということ.流暢に英語が話せなかろうが,友達のように仲良く会話ができなかろうがそれは重要じゃない.私がこの場にて成すべきと思ったことを結果として成せたかどうか.それが重要なのだと.
振り返ってみると,今までの人生でこんなに細かく自分の行動に対する具体的な目標を設定して,さらにそれを実践したことがあっただろうか.おそらくこのアメリカでの活動においては,自分が何を成すべきかを理解しないまま過ごしていると本当に何もしないまま終わってしまうのではないかという危機感から行動が後押しされたのだと思うが,「やるべきと認識した行動に対しては実践できる」という自信をつけられたことがいい経験になったと思う.
一方で,定量化できないものに対してはあまりうまくいっていないなという感覚がある.例えばxxさんと友達になるみたいな.いや,単純にこの話はまだ行動に落とし込めていないだけなのかもしれない.「友達である」というのは行動を積み重ねた結果を見返した時の関係性に対して「友達っぽい」と評価するのである.そう考えると,尊敬される人でありたいとか,専門知識に精通した人になりたい,写真が上手くなりたいといった定量的でない欲求は全て,行動という結果に対して後から評価したものである.具体的な行動無くしてなりたい自分になれるものではない.
そもそも欲求がなければ行動する理由もないのだが,目指したい理想があるのであれば行動するしかない.
ただし,闇雲に行動すればいいというものでもない.その行動のベクトルがゴールに向いているかを定期的に見直し,修正しないといけない.
この行動と修正を繰り返すことでゴールに近づいていけるのだ.
日本に帰ったら何をしようか.
